白珠の巫女

STAGE 17


 許された時間はごくわずかだった。
 立ち上がりしな、ぐるりと巡らせた視線ひとつで、どれだけのことが伝わるか。すでに賭けだった。それでも不安は不思議なほどになかった。
 傍らでエアリアスが、穏やかに笑ってくれているからだった。
 深く息を吸い込む。胸を張って顔を上げた。
「――皆様、お騒がせいたしました」
 クリス本来の、ぴんと張りのある声が広間に響きわたる。
「この余興、お楽しみいただけましたでしょうか」
 余興という言葉にざわめきが起こる。たたえた笑みを崩さぬように、クリスはそれがおさまるのを待った。
「宴の終わりに、あらためてご挨拶申し上げたく思いますが――このような有様では大変失礼かと存じますので、着替えてまいります。いましばらく中座いたしますが、おゆるしくださいませ」
 にっこりと笑むと、クリスはゆったりと礼の動作を取った。その微笑みも、両親から叩き込まれた貴族としての振る舞いも、周囲を魅了するに足ることは経験的に知っている。初めてそれを、明確に意図して行使した。媚くらいいくらでも売ってやると、今は素直にそう思えた。
 踵を返そうとして、ふと差し伸べられた白い手袋にクリスは気がついた。エアリアスが、まるで動じない笑みのままで、自分を待ってくれていた。
 嬉しくて自然に頬が綻ぶ。
 ひとことも言葉を交わさずに、それでもエアはクリスの思惑を正確に読み取ってくれている。そう、すべて茶番にするのなら、そこまでやって本物だ。
 灰色の髪の騎士に自分の手を委ね、彼にエスコートされる形でクリスは中央の階段をのぼった。クリスがあるじと――宝珠の巫女と呼んだ人物の、どこからどう見ても凛々しい騎士姿に、疑問符を貼りつけた視線がいくつも突き刺さるのがわかる。それをまるで意に介さないように堂々と、物語の王子のように優雅に、バルコニーに着いたエアリアスは騎士風の完璧な礼を取ってみせた。合わせてクリスも、ドレスの裾を持ち上げて膝を曲げる、貴婦人の所作をする。
 招き入れるように背後の扉が音もなく開く。微笑を投げてその向こうに身を翻すのも、ぴったりと二人おなじタイミングだった。


「レナが下の控えの間に」
 重い扉が従僕の手で完全に閉ざされたのと同時、エアリアスが顔を寄せて囁いてよこした。
 息のかかる距離がなつかしい。女官たちに聞かれないように、こっそりと内緒話をしたこともあった。
「来たの、エディの馬車ですよね?」
「ええ」
「じゃあ大丈夫。たぶん、つれて来てくれてるはずです」
 つとめて事務的な口調で確認する。身体を離して廊下を進みかけて、預けたままの手に気がついた。
「……こっち」
 手首を返して、逆にこちらからその手を引く。エアリアスはぱちりと瞬きをして、それからふわりと笑った。
「はい」
 引かれる動きのままにクリスに肩を並べる。手に触れるのが初めてなわけもない。先刻のダンスを数えずとも、巫女の騎士として、あるじの手を引く場面は少なくなかった。それなのに妙に照れくさくて、クリスは前だけ向いたまま、歩をいっそう速くした。
 向かったのは大広間とは逆方向、賓客のための部屋の並ぶ一角だった。翠を表す色のつけられた客室の扉の前に見慣れた長身の影を見つけて、クリスはほっと息をつく。
「よう」
 ユーリグはひょいと手を上げて二人を迎えた。
「良かった。来ててくれた」
「エドが絶対ここだって言うんでな。俺はいちおう、見張りだ」
「助かるよ」
 同僚に笑って見せたところで、声を聞きつけたのか扉が細く内側に開いた。
「やあクリス、早かったね。準備できたとこだよ」
 面白がるように瞳をきらめかせるエドマンドの背で、巫女殿の有能な筆頭女官が深々と頭を下げていた。笑みのかけらもないその表情がいまはひたすらに頼もしい。
「レナ、エアを頼むね。とびきり美人に仕上げてくれる?」
「お任せください」
 かたくるしく頷くその顔が、お帰りなさいませ、と言っているように見えた。
「よろしく。じゃ、私も着替えてきます」
 最後の台詞は傍らのあるじへ向けた。緋のマントも、金糸刺繍の礼装も、本当はしなやかな立ち姿にとてもよく似合っていて惜しい。自分の言葉の故に、ふたたび仮面を被らせてしまうのはとても残酷なことなのかもしれない。ふと不安をおぼえたクリスの二の腕を、見透かすようなまなざしをしてエアがぽんぽんと叩いた。
「貴方が自慢できるように変身してきますから、楽しみにしていてくださいね?」
「……ええ」
 それだけで心が軽くなる。もう一度念を押すように面々と目を合わせると、青いドレスの裾を勢いよく翻してクリスは廊下を駆けた。貴婦人とは程遠い振る舞いに、背後でくすくすと笑う声が聞こえた。
 クリス自身の私室まではやや距離がある。さすがにわずかに息を切らせて十五年過ごした部屋に駆け戻ると、中にはすでになじみの侍女が数名待機していた。どの顔も母親の信頼厚い、長年スタイン邸に勤めている古株だった。両親のどちらか、あるいは双方の差し金に違いない。手廻しいいなあ、と苦笑しながら、クリスはてきぱきと順序良く脱がされるままに任せた。一点の緩みもなく仕上げられた極上のドレスは、ひとりでそう簡単に脱げるものではない。
 最後に胴を締めつけるコルセットを外されて、しみじみと安堵の息が漏れた。令嬢のあいかわらずの様子に忍び笑いをしながら、侍女の一人が白地に金糸の縫取りの一揃いを差し出した。――エアリアスやユーリグの装いと同じ、フェデリア騎士隊の正礼服だ。
 一瞬の逡巡を押しやり、クリスは手を伸ばしてそれを受け取った。意識せずとも身に着いた動作で手早く身支度を済ませ腰に細剣を佩き、夜会用の小さな靴を編み上げの長靴ちょうかに代える。その間に結い上げた髪を留めていたピンは外され、軽く梳かれた波打つ髪はうなじでひとつに束ねられた。幅広の天鵞絨びろうどのリボンを使ったのが、彼女たちのちいさなこだわりのようだった。
 唇に残った紅が油を含ませた布で丁寧に拭き取られると、姿見の向こうに出現したのは宝珠の騎士クリス=スタインだった。見慣れた姿にけれども一抹の違和感がある。
「あら。マントは」
「今日はこれでいいんだ」
 不思議そうに首を傾げた一人に笑ってみせる。明るく響いていることを願った。手許から取り上げられた、緋色に染めたフェデリアの騎士の証を、今ほど切実にこの身に纏いたいと思ったことはなかった。


 靴音も高く階段を駆け下りる。扉の前からは人影が消えていた。息を整えて、小さく扉を叩く。一拍の空白のあと、応えて招き入れたのはレナだった。
 気配を読んだのか、こちらに背を向けて額飾りの位置を直していたらしいエアリアスが、ぱっと振り向いた。髪粉を落としたのだろう、つねの輝きを取り戻した銀の髪がさらりと揺れる。ただ肩に流しているだけのいつもとは違い、細く編んだいく筋かが耳の上に可憐な形でまとめられていた。織りや材質のそれぞれ異なる布を幾枚も重ねた巫女装束が、短時間で着付けられたとは思えぬ確かさで、白の宝珠の巫女の清楚な美しさを引き立てている。
「いかがです?」
 ゆったりとした袖に包まれた両腕を広げて、エアリアスがにこにこと笑いながら首を傾げて見せた。
「似合ってます」
「隊服よりも?」
 さらりと切り返されて絶句する。ぷっ、とエアが吹き出した。
「冗談ですよ!」
「……冗談やってる場合じゃないでしょう」
 思わず額を押さえると、すみませんとエアリアスが笑い、指をのばしてクリスの頬にこぼれたほつれ毛を払う。そのまま間近に視線が絡んだ。
「貴方も。似合っていますよ、クリス。ドレスも美しかったけれど、やっぱり貴方はその姿がいい」
 さらに一歩。抱き寄せられるほどに近く、エアリアスが歩み寄った。背中にまわされるかと思われた腕はしかし触れてくることはなく、その代わりになじみのある重量がクリスの肩に降った。
「………え?」
 目に飛び込む色彩は緋。翼と細剣の意匠の縫い取られた、紛うかたなき騎士隊のマントが、クリスの肩を覆っている。二本の飾り紐で繋げた金色のボタンを、エアリアスは丁寧にクリスの隊服に留めつけた。
「隊長殿から、お預かりしてきました。これは貴方のものです、クリス――私の騎士」
 なめらかな表面を巫女の細い指先がすべって、遠慮がちにクリスの手に触れる。
「クリス。……戻ってきてくれるのでしょう?」
 触れ合った皮膚に感じる、わずかな――本当にわずかな震えだけが、彼が隠そうとする不安をクリスに伝えるものだった。
(――貴方も怖がってくれた?)
 勝手な言い分と知りながら、それでも嬉しいと思う心が止められない。
 つかまえた指先に誓いのしるしをもう一度落とすべく、クリスは身をかがめる。
 私の巫女――そう呼ぼうとした。
(違う)
 皆の前であるじと呼んだ。それは確かに、彼の許に戻るためだ。けれども傍近くいる理由はそれではなくて。
(あなたが好きなだけ)
 伝えていない言葉だった。
 一生伝えることのないはずの言葉だった。
 用意の出来ていない唇はきちんと動いてくれなくて、――だから。
 背後で扉が静かに開いて、また閉ざされる気配があった。
 クリスは顔を上げた。
「クリス?」
 唇はまだ麻痺したまま言葉を紡がない。
 その代わりに近く近く吐息が混じるまで顔を寄せた。
 睫毛を伏せる一瞬前に、エアリアスが無言で目を瞠るのが見えた。


 ひと月前にはつめたく感じた口接けは、いまはただあたたかいだけだった。
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