白珠の巫女

STAGE 14


 扉の辺りが騒がしいことに、ふとクリスは意識を向けた。ダンスの誘いを通算十五件断って、いいかげん笑顔もこわばりはじめた頃だ。
 とたんに視界に見慣れた色彩が飛び込んできた。遠目にも目立つ鮮やかな緋の色は、言わずと知れたフェデリア騎士隊の証である。そういえば市内巡察の終わる頃合だった。任務を終えた隊員の一団が、遅れて登場したのだろう。
 ここフェデリアにおいて騎士隊員とはエリートの代名詞だ。こうした開放的な夜会ならば、肩に翼と細剣の紋章の入ったその礼装用のマント姿ひとつが招待状代わりともなる。それゆえに隊員は、マントの厳重な保管を義務付けられてもいた。
 二度と身に着けることはないだろうその緋の色は、少しだけクリスの胸に痛い。けれど今はそれよりも仲間たちの訪れが単純に嬉しかった。背伸びをして手を振って合図すると、ひときわ背の高い黒髪の同僚が気づいて破顔し、周囲の仲間を促してこちらに足早に近づいてきた。
(あれ?)
 一団の中に見慣れぬ人影を見つけてクリスは首を傾げる。大柄なユーリグの背中に半ば以上隠れていてよくは見えないが、細身で小柄なシルエットとくすんだグレイの髪に見覚えがない。
「…………クリス、か?」
 クリスの疑問を押しやったのは、あきらかに戸惑ったユーリグの物言いだった。
「そうだよ? なに?」
「いや、なんというか……」
 精悍な顔に朱を滲ませて、そう言ったきりユーリグは押し黙る。その目線を追いかけて、ああ、とクリスはやっと今宵の自分のいでたちに思い至った。かすかな自嘲の笑みが唇の端に浮かぶ。
 騎士クリスはもういない。ここにいるのは国務卿の娘クリスタル=リーベル。そう心に言い聞かせてこの会場に来たはずなのに、懐かしい緋色はかんたんにクリスの意識をかつての自分に引き戻させる。
 こんなことでは駄目だ。
 こんなことで揺らいでいる自分は、彼の足許にも及ばない。
 クリスは背の高い同僚に微笑みかけた。
「……綺麗だとは、言ってくれないのかしら?」
 がらりと変わった口調にユーリグは一瞬絶句し、それから頭を掻いた。
「いや悪い。……あんまりいつもと違って、その……綺麗なんでな。驚いた」
「ふふ。ありがとう」
 ドレスの裾を持ち上げてクリスは軽く礼の仕草をする。その様子にまた、ユーリグが奇妙なものを見る目をした。無理もない話だ。二年半前、女扱いをするなと啖呵を切ったのは、ほかならぬ自分自身なのだから。
「ユーリグ! 遅かったじゃないか」
 屈託のない明るい声がそこに割り込んだ。ほっとしたような顔をして、おう、とユーリグが手を上げた。ダンスが一段落したらしいエドマンドが、飲み物のグラスを手渡しながら同僚に悪戯っぽく笑いかけた。
「挨拶は済んだかい? おおかた、クリスのドレス姿に見惚れてろくに話しちゃいないんだろうけど」
「うるさいぞエド」
「ああ、図星だね!」
 くすくすと笑い、エドマンドはそれで隊からの祝辞は受けたかいとクリスに尋ねる。かぶりを振ったクリスを見て、上目遣いにユーリグを軽く睨んだ。
「駄目じゃないか、早くしなよ」
「今話そうとしていたのを、お前が邪魔したんだ」
 ユーリグは肩をすくめ、あらためてクリスに向き直ってにっと笑った。
「隊を代表しておまえにきちんと祝いを言おうと思ったんだが。俺はどうもそういう堅いのは苦手だしな。こいつは今回はウォリスタ伯で参加するとか言って逃げやがるし。で、おまえに紹介したい相手がちょうどいるんで、ついでに任せようということになった」
「紹介、って?」
「隊の新入り。おまえ、まだ会ってないだろう。呼んで来るからちょっと待っててくれ」
 軽く手を上げて、ユーリグは踵を返す。戸惑いのないはずはないのに、態度の変わらない同僚を嬉しく思いながら、クリスは傍らの友人にささやかな疑問を投げかけた。
「新入り? トーナメントはもう少し先の話でしょ?」
「……会えば判るよ」
 台詞の前の不自然な沈黙に不審を感じて目を向ければ、一生懸命真面目な顔を取り繕おうとしているエドマンドがいた。クリスの表情になにを感じたのか、目が合った瞬間にぷっ、と吹き出す。
「なんなのさ、もう」
 唇を尖らせるクリスの名をユーリグが呼ぶ。
 振り向くと大柄な同僚の後ろにくすんだグレイの髪が見えた。それでは先刻の見覚えのない人影が件の「新入り」かと、クリスは得心する。それと同時。
 ユーリグがすっと脇によけ、その人物のにこやかな笑みを浮かべた顔がクリスの目に露になった。
 緋色のマントに金糸刺繍の白の上下、腰にレイピアを佩いたフェデリア騎士隊の礼装、うなじできゅっと束ねられ、まっすぐ腰まで伸びたグレイの髪。鍛えた体躯の他の騎士たちに比べれば華奢にすら見える細身だが、すらりと背の伸びた立ち姿はしなやかで、猫のような優美さと隙のなさにおいて周囲と見劣りのしない雰囲気をまとっている。
 ……そういったもののすべてを、クリスの瞳は映していたけれども、クリスの目には見えていなかった。
 見えたのはただ、その若き騎士の双眸。
 まっすぐに自分を見つめる、アメジスト色のふたつの瞳だけだった。

 息が止まった。心臓の鼓動すら止まった気がした。
 ここに彼がいるはずがない。
 自分が彼を見間違うはずがない。
 ひどい混乱に翻弄されながら、それでも心はそのひとの名を呼んだ。
(エア)
 自分の、たったひとりのあるじ。
(…………エア……)
 自分の、たったひとりの――

「はじめまして」
 騎士隊流の優雅な礼をとり、彼はクリスの間近に歩み寄る。
「セシル、と申します、クリスタル=リーベル嬢。どうぞ、お見知りおきを」
 立ち居振る舞いも口上も洗練された見事な騎士ぶりで、気後れしたふうもない。淀みのない祝辞を聞きながら、クリスは救いを求めて大柄な同僚へ、茶色の髪の友人へ順に目を向けた。そのどちらもが悪戯を成功させた子供のような笑みを浮かべてクリスを見返してくる。
 それでこれが、彼らが結託しての企みだと知れた。
 責めればいいのか礼を言えばいいのか判らない。
「クリスタル」
 なつかしい声が呼んだ。
 クリスはゆっくりと目の前の美しい顔に焦点を合わせる。
 忘れえぬ穏やかな笑みを浮かべて、エアリアス=セシル=ラフィードが左の手をさしのべた。
 やさしい声音、やわらかな笑み。初対面を完璧に繕った彼の、瞳の色だけがその仮面を裏切ってつよい。
「踊っていただけますか」

 その手を取る意味を、痛いほどに判っていた。
 それでも身体は理性を置き去りにして、心が命じるままに動いた。

「…………はい」
 手を伸ばす。
 周囲のどよめきなど耳に入らなかった。クリスが知ったのは、そっと取られた右手の指に唇が寄せられたとき、そこにともった小さくたしかな熱だけだった。


 音楽は、緩やかな三拍子。
 クリスをリードして、エアはあぶなげなくステップを踏む。ダンスも騎士の必須科目だからと、いつだったか草原でふたり、練習したことがあった。流行り歌を口ずさみながら、くるくると互いのパートを入れ替えて、笑いあいながらいつまでも踊っていた。
 そのときはこんな風に、触れている手を意識したりはしなかった、とクリスは思う。
 あたりまえのように、誰よりも近くにいた。だから知らなかったのだ。それがどれだけ得がたいことなのか。
 ――あと少しで、この手はふたたび離れてしまう。
 その前になにか言わなくてはと焦燥に追われて、クリスは俯いていた顔を上げた。
 視線が交差する。
 長い睫毛のむこうの、紫の瞳に縫いとめられて、クリスの喉の奥で言葉が凍った。
 こんな目は知らない。
 こんな目をするエアは知らない。
(…………違う。知ってる……)
 一度だけ見た。あれは彼の許を離れる前の晩だ。
 名を、呼ばれて。口接けられた。
(どうか、そばにいてください)
 そのときの目。
 楽隊が最後の旋律を奏でた。ラストを鮮やかなターンで決めて、エアリアスの靴が動きを止めた。
「……あ……」
 終わってしまった。
 なにも、言えなかった。
 逃げるように身体を引こうとして、クリスはそれを果たせずに瞬いた。ダンスの際に取られた右の手と左の腕と、両方をエアリアスが離さずにいる。
「――――」
 クリスはわずかに開いた唇で、エア、と声には出さずに呼ぶ。
 もう一度、エアリアスの左の手が、ぎゅっと力を込めてクリスの右手を握った。
 クリスはゆっくりとその手を見やる。そうして身体の力を抜いた。
 次の曲の演奏が始まった。先のものより少しばかりスローテンポなリズムに合わせ、一歩目を踏み出したのはふたり同時だった。


「……ごめんなさい、クリス」
 楽の音に紛れさせて、そっとエアリアスが囁いてよこした。二曲目も半ばが過ぎた頃だった。
 クリスは反射的に顔を上げた。痺れるような感覚が唐突に背筋をつたった。涙の前兆を告げるそれが、愛称をひさしぶりに呼ばれたせいだとは、一拍遅れて気がついた。
「こんなことをして、クリスはまた怒るだろうと思ったけれど。……どうしても」
 エアリアスは悲しげに笑む。
「……どうしても貴方に逢いたかった。巫女の姿でなく、クリスに私を見て欲しかった。最後に、一度だけ」
(最後に――)
 その台詞をクリスの唇がなぞった。
 とうに覚悟ができていたはずの言葉に、それでも、指先が震えるのが止められなかった。
 エアリアスがかすかに目を瞠り、そして続く言葉をつむいだ。
「ねえ、クリス。憶えておいて。貴方が好きです。きっとずっと、永遠に」
 揺らがない視線が痛い。
 目を逸らそうとして叶わずに、クリスは息を詰めた。
「……わたし、は」
 半ば無意識に、唇が動いた。
(わたしは)
(あなたが、好きです)
「クリス?」
 囁きかけるエアの息が頬にかかる。
「私は――」
 そのときクリスの目が、壁に据えられた大きな鏡をとらえた。そこに映っているのは騎士装束の緋色の背中、そして化粧を施し髪を結い上げた自分の――クリスタル=リーベル=スタインの――姿。
(駄目だ)
 心が警告を発した。
(私では駄目)
 どんなに傍にいたくても。それではこのひとを護れない。このひとに誇れる自分ではいられない。
「――私は。貴方のそばにはいられません」
 エアリアスはふたたび、ゆっくりと笑んだ。
 いつか見た、それよりほかに表情を見つけられないような、さみしい微笑みだった。
「……はい」
 音楽が終わりを迎える。
「どうか――つつがなく」
 最後にそう告げて、クリスは身体を離した。引き留める手は、もう、なかった。
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