白珠の巫女

もうひとつの恋物語


   そんなに近くにいたのね あなた
   近すぎてわからずにいた

   時よどうかこの一瞬で止まって
   時よどうか永遠にこのまま続いて

   あなたがわたしの隣にいる
   わたしに微笑みかけてくれる
   あたりまえのような日常
   それがわたしの奇跡


「それ、なんていう曲?」
 ふと視線を上げてクリスはたずねた。
 たずねられたのは、食後の茶を運んできた年若い女官だった。そばかすの目立つ女官は一瞬きょとんとクリスを見返して、それから慌てた様子で口を塞いだ。完全に卓上に落ち着いていなかった盆が、がちゃんと鳴る。それを聞いて彼女はさらに慌てた。
「申し訳ありません!」
 いいよ、とクリスが言おうとするのを制して、巫女殿の女主人――白の宝珠の巫女がにこりと微笑んで女官の名を呼んだ。
「ミナ。気にしなくていいですよ。こぼれも割れもしていないから。ただ、放っておくと濃くなってしまうから、はやめに注いでくれますか?」
 穏やかな声で言われて、ミナはなんとか落ち着きを取り戻したようだった。恐縮して頭を下げ、カップに香りのいい茶を注ぎ分ける。最初に巫女に、次いで巫女の騎士であるクリスに。
 それが終わるのを待ってから、クリスは改めて問いかけた。
「さっきは驚かせて悪かったね。で――もう一度聞いていいかな、さっき歌っていたの、なんていう曲?」
「あの……申し訳ありません。わたし、歌っていました?」
 恥ずかしさばかりでなく頬を染めて、ミナは答えた。金の髪に湖色の瞳の、凛々しく美しい「騎士様」が、巫女付きの女官に直接声をかけることはあまりない。食事とその後の茶の支度は彼女たちにとって数少ないクリスに近づける機会で、その権利を巡っては毎回熾烈な争奪戦が繰り広げられるものだった。
 そういう事情までは知らないものの、クリスも自分が女官たちの憧れの的であることは承知している。内心で肩をすくめながら言った。
「うん。――別に気にしないでいいよ、耳障りだったとかそういうわけじゃないから。むしろ逆かな、きれいな曲だから気になって」
「そうですよね! とってもきれいな曲で、大好きなんです、わたし」
 優しい言葉に安堵したのか、とたんにミナは目をきらきらさせて、力強く説明を始めた。
「いま王都で流行っているお芝居の中の歌なんです。わたし、このあいだお休みをいただいて家に戻ったときに、母に連れて行ってもらって。すごく感動するお芝居なんです! とくに、騎士と巫女が月明かりの下で誓いをかわす場面がとっても素敵で」
「……騎士と、巫女?」
 クリスは呟いて、思わず自分の主人である巫女と目を合わせた。巫女はおやおやというようにわずかに眉を上げて苦笑している。長い銀髪と紫の瞳の神秘的な美貌には少しばかり不似合いな、いたずらっぽい表情だった。
 完全にクリスのほうを向いて話しているミナは主人のそんな表情には気がつかずに、熱心に頷いた。
「そうです。宝珠の巫女様と、巫女の守護騎士様のお話なんです。100年くらい前に実際にいらした巫女様の話を題材にしているのですって」
「お気を悪くなさらないでくださいませね、クリス様。わたくしどもにとっては巫女様と騎士様の恋物語というのは永遠の憧れなんですわ」
 隅に控えていた年上の女官が、申し訳なさそうに笑いながら口を挟んできた。クリスは笑って頷く。実感として判るわけではないが、そういうものなのだろう。巫女と騎士の恋を語る芝居や物語は、むかしからフェデリアでは人気が高い。
 クリスも以前、その手の芝居に連れられていったことがある。その当時は、まさか自分が巫女の守護騎士になるとは思ってもみなかったものだが。
「わたくしもその芝居を見たという友人から手紙をもらいましたの。歌も良かったけれど、巫女役と騎士役の役者がとても素敵で、何度も見に行っているのですって。でも……」
 笑い含みに女官はミアを見やる。得たりとばかりにミアは断言した。
「お芝居の中の巫女と騎士より、エア様とクリス様のほうがずっとずっとお美しいです! おふたりが舞台に立ってらしたらもっと素敵なのにって思ってましたわ」
「わたくしも友人にそう書き送りました。残念なことに、こちらの巫女様と騎士様は女性同士でいらっしゃるから、ロマンスは期待のしようがないわと書き添えましたけれどね」


     *  *  *


「……ロマンスは期待できないんだそうですよ?」
 くつくつと笑っているのは巫女――エアだ。
 憮然とすべきか同調して笑うべきか表情を選びかねて、クリスは馬足を速めるふりをしてそっぽを向いた。
 昼食の詰まったバスケットを携えて、巫女と騎士はすでに習慣と化したふたりきりの遠乗りに出ていた。女官たちも心得たもので、冷めても美味しく、馬の背で揺られても形が崩れず、かさばらない料理ばかりを手早く用意してくれる。
 春の風が心地よく、クリスのまとう緋色のマントを揺らした。
「まあ、彼女たちにとっては私たちは『女性同士』にしか見えないようですから、当たり前といえば当たり前でしょうけれどね」
「……いまの貴方が男性に見える人がいたら、お目にかかりたいものです」
 横目でエアを見やって、クリスは今度は実際に肩をすくめた。
 まっすぐに腰まで届く、輝く銀の髪、同じ色をした長い睫毛。紫水晶に例えられる澄んだ瞳。抜けるように白い肌に、あくまでも優雅で、それでいて少しばかりの茶目っ気のある微笑。
 人前に出ることはめったにないが、数少ないその機会ではつねに周囲の男性の目を釘付けにする美貌の巫女が、実は男性であるといったい誰が思うことか。
 クリスが巫女の守護騎士となってから2年ほどが過ぎているが、巫女の美少女ぶりはぼろを出すどころかますます磨きがかかっている。
「おやおや」
 わざとらしく瞬きをして、エアはクリスの顔を覗き込むように身を乗り出した。
「悲しいことをおっしゃる。貴方の目にも、私は男に見えていない?」
「っ――」
 この不意打ちに、クリスは真っ赤になった。
「クリス?」
 涼しい顔で巫女は追討ちをかけてくる。こればかりは姿に似合わず低い、「彼」の本当の声でこんな風に呼ばれては、太刀打ちのしようがない。
「……見えないはずが、ないでしょう。私に」
「それはよかった」
 ふわりとエアが笑って、手綱から片手を離してクリスの頬に添えた。
 そっと引かれて、あらがわずにクリスはまだ赤い顔を近寄せる。

 互いに騎乗したままでの、一瞬の口接け。


   あたりまえのような日常
   それがわたしの奇跡


     *  *  *


 秘密の恋人たちに二度目の別れが訪れたのは、この日から約1年ののち。
 そしてさらに1年の月日を数えて、誓いは果たされる。


 フェデリアに初めて誕生した女性騎士が選んだ伴侶が、かつて彼女があるじと仰いだ巫女その人であったことを、知るものは少ない。
 後年『太陽の騎士』と呼ばれたクリスタル=リーベル=スタイン伯爵夫人の副官であり夫であった青年に関し、史書はただその名と、『月の君』の二つ名を記すのみである。


 ――けれども。
 騎士だった少女と巫女だった少年が実らせた恋の伝説は、いまでもフェデリアでひっそりと語り継がれている。



<Fin.>

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