ぎりしあ奇譚

第四章


 黄金よりなお豪奢な髪を風に遊ばせながら、太陽神は峰の中腹、森がわずかに開けた山中に降り立った。
 各地にある彼の神殿の中でも最大規模を誇る予言の神殿、山深い斜面に立てられたそれを、更にはるかに見おろす高峰。人々がアポロンの神域と呼ぶこの場所には、神官や巫女はおろか、神々すらも少数を除いて立ち入ることはない。
 その、限られた例外のひとりが、いまは彼の腕の中にいた。太陽神の肩衣ヒマティオンのなかに大切に包まれて眠る、小柄な女神。印象的な銀の髪は、すっぽりと布に包まれて外には見えない。
 泣き疲れ気を失うように眠った妹神を、壊れ物のようにそっと抱えなおすと、アポロンは森の中に歩みを進めた。視線をめぐらせて幾重もの梢の下、木漏れ日がやわらかに落ちかかる下生えのうえに、華奢な身体を静かに横たえる。自らはその傍らに腰を下ろした。
 弓を引く指長の手を伸ばして、妹の顔にかかる布をよけてやる。さらりと銀色の巻き毛がこぼれて草の上に落ちた。指先でそれを絡めとり、太陽神はいとおしげに銀色の輝きに口づけた。
「アルテミス」
 聞くもののない囁きは、自身の耳にすら届かぬほど低く。
「アルテミス、……愛しているよ」
 音楽と芸術をもつかさどる恋多き青年神のことばは、まるで初めて恋人を得た男のようにおぼつかない。
 アポロンは身をかがめた。
「世界よりも、おまえを愛している」
 金の髪が頬に流れ落ちて表情を隠した。
「……だめよ、兄様」
 唇が重なる寸前、それをとどめたのは女神の声。
 間近に見つめる青玉の瞳を驚きもせずに見返して、アルテミスは静かに拒絶を告げる。
「なぜ?」
「知ってるでしょう……?」
 手を伸ばして、いとおしげに、兄の頬を撫でた。
「兄様が好きよ。父様よりも、母様よりも、アテナ姉様よりも、兄様が好きよ。生まれた時から好きだったわ。でも、触れてはだめ。世界が壊れてしまう」
「――壊れては、なぜいけないんだ?」
 その言葉に、白い指が震えて動きを止める。
「未来永劫おまえを得られない世界など、なくなってしまえばいい……」
「兄様――」
 アルテミスが目を見開いた。
 兄の台詞にではなく、その瞳からこぼれた涙に意識を奪われて。
「どの女を抱く時も、おまえのことを考えていた。そう言ったら軽蔑するか?」
 言葉を失った妹を見おろして、アポロンは苦く微笑んだ。
「狂ってるな。わかっているんだ。だが、もう止められそうにないよ」
 アルテミスがかなしげに眉を寄せる。
「ずるいのね」
「ああ」
「ずるい。そんなふうに、自分ひとりが悪いような顔をしないで。自分ひとりが狂ってるような顔をしないで」
「アルテミス――」
「……ずるいのは、本当はあたし」
 初めて眼を伏せて、女神は笑う。
「兄様がさらってくれたらいいのにって、思ってたの。あたしの言うことなんて聞かないで、あたしの気持ちなんか知りもしないで、そのへんの女みたいに抱いてくれたらいいのに、って」
「アルテミス」
「触れてはだめ。あたしはそう言うの。あたしは世界を壊したくないの。罪を犯すのは兄様で、あたしは可哀相な女の子なの。――ね、あたしもとっくにおかしくなってるのよ」
「アルテミス」
「そればかりね、兄様」
 今度は翠の瞳をはっきりと開いて、アルテミスは微笑んだ。
 幼い姿のままのこの処女神がはじめて浮かべる、それは女の笑みだった。
「『触れてはだめ』」
 台詞とは裏腹に、アルテミスは両手をアポロンの頬に添える。
 銀色の長い睫毛が、ゆっくりとふたたび伏せられる。
「愛しているよ」
 アポロンは最後にもういちど囁いて、望みを叶えた。

 初めてあわせた唇は涙の味をしていた。


 それに、先に気づいたのはアルテミスだった。
 長いくちづけの合間、兄の首に腕を絡めたまま、ぼんやりと空を見上げた瞳が、ふいに大きく見開かれる。喉の奥から短い悲鳴が漏れた。
 ただならぬ様子を見て取り、アポロンは腕に妹を抱いたまま背後を振り仰いだ。そして絶句する。
 太陽を牽くアポロンの馬車が軌道を大きく外れて天空を駆け下りてきていた。御者台には誰の姿もなく、6頭の金の馬は口から泡を吹いて狂ったように脚を動かしている。
「うそよ……あたしはここにいるのに!」
 アルテミスがアポロンの視線とは別の方向を向いて叫ぶ。その指が示したほうからは月を運ぶ銀の船が迫っていた。つねには夜の空をゆらゆらと進む優美な船は、いまは嵐の中の小舟のように激しく揺れながら、昼間の空を渡る。
 太陽の馬車は太陽神アポロンの、月の船は月神アルテミスの統べるもの、たがいに多くの役目を持つ双子神が直接それらに乗ることはほとんどなかったが、その運行は彼らの意思のもとにある。金の馬車の手綱を取る御者、あるいは銀の船の舵を取る舵手であれど、神の意向に反して暴走することは出来ぬはずのものだ。
 ――だが、
「……駄目! 止められない!」
 アルテミスが呻いた。伝えたはずの意志の力がはじかれる。アポロンもまた暴走する太陽の馬車の動きを止められずにいた。太陽と月は引き合う磁石のようにその距離を急速に縮めていく。
「世界が――壊れる」
 アポロンは妹の身体を抱き寄せた。熱にうかされたような表情で空を見上げる。
「これがおまえを欲した代償なのか……」
「兄様」
 アルテミスが小さな子供のように、アポロンの腕にしがみついた。
「にいさま、あたし、怖い」
 目も眩むような光があたりを満たす。
「怖いよ、にいさま、……あたしたちこんなに悪いことをしたの……?」
 覚悟なら、していたはずだった。
 世界を失っても手に入れたい想いのはずだった。
 けれど目の当たりにする世界の崩壊は、あまりにも残酷すぎて。
「わからないんだ、アルテミス……」
 アポロンが呟く。
「それでもおまえが欲しかった。どうしても止められなかったんだ」
「……兄様」
 アルテミスは兄の胸に頭をもたせかける。
「あいしてるわ」
 アポロンは銀の髪にくちづけを落とした。
「愛しているよ」
 かたく抱き合ったまま、刻一刻と近づいていくふたつの光を見上げる。
 光はますます強さを増して、何もかもを真っ白に灼くようだった。
 熔けあう、
 そう思われた刹那――

「アポロンっ! この大馬鹿!! とっとと来てこいつを止めろ!」
「なにをしているアルテミス! おまえの船だろう、これは!」
 空気を切り裂くように高低ふたつの声が、怒りをはらんで放たれた。
 ほぼ同時に太陽と月が動きを停めていた。
 炎の髪をした屈強の戦神と、甲冑に身を包んだ凛々しき智神が背中合わせにそれぞれの武器を取り、渾身の力で太陽の馬車と月の船に対峙している。
「――アレス」
「アテナ姉様……?」
「申し開きはあとで聞く! さっさと来なさい、もういくらもたない!」
 アテナが視線は月の船に向けたまま、鞭のような叱咤を飛ばす。
「頭で止めようとすんな、直接手綱取れ!」
 アレスもまた自身の大剣をかざした姿勢のままで怒鳴った。
 アポロンとアルテミスは視線を通わせる。そこに同じ意思を見つけて頷きあい、次の瞬間、まっすぐに空へ翔けた。
 アポロンの手が馬車の手綱にかかる。アルテミスが船の舵を力のかぎり廻した。戦神ふたりがその様子を見て取り、その場から瞬時に飛びのいた。馬車の炎が船の帆を焦がすほどの近さで太陽と月がすれ違う。
 目を開けられないほどの膨大な光。
 思わず差し伸べた手と手、指先がわずかに触れた。
 
 
 太陽の馬車は瞬く間に天を駆け登って、あるべき場所へと戻っていく。それを振り向き振り向き、アルテミスは夜の領域へと月の船を進めた。
 太陽に間近に炙られる熱さが急速に引いて、さえざえと冷たい月の光だけが身体を包む。それは女神には、太陽である兄が遠く離れていくしるしのように思われた。
「にいさま……」
 かすかに呟いて、自分の肩を抱く。
「あたしたち、どうしてあのまま、抱き合っていられなかったの……?」
 そうして世界が滅びるのを見つめていればよかったのに。
 そうすれば、二度と離れずにすんだだろうに。
「兄様が好き……」
 うずくまってアルテミスは膝を抱える。
 そのとき静かな声が、女神の名を呼んだ。
「おまえたちの手は、世界を守るためにあるのだよ、アルテミス」
「……姉様」
 隣にいつの間にかアテナが座していた。甲冑の兜をはずし、なめらかな黒髪をあらわにした男勝りの智神は、どこかいつもよりやわらかな印象を与える。
 穏やかに見つめてくる目を、アルテミスは見返すことができずに下を向いた。
「……そんなの知らない。世界なんか滅んでしまってもかまわなかったのに」
「おまえには出来なかったさ」
「出来たわ!」
 はじかれるようにアルテミスは顔を上げる。
 涙でぐしゃぐしゃに汚れた顔を腹違いの姉に向けて、駄々っ子のように訴えた。
「姉様なんて嫌い、アレスも嫌い、みんなきらい! 兄様だけ好きなの、兄様さえいればいいの! どうして放っておいてくれなかったの……!?」
「放ってなどおけるわけがないよ、アルテミス」
「どうしてよ! 世界が大事だから……!?」
「おまえたちが大事だから」
 予想しない答えに、虚をつかれてアルテミスは言葉を失う。
「おまえたちを愛しているんだよ。私も、私たちをここに遣わした父上もね。幸せになって欲しいと思っている」
「あたしは――兄様さえ、いればいいもの……」
 アテナはゆっくりとかぶりを振って、妹の答えを否定した。
「けれどおまえは、最後に世界を選んだよ」
 アルテミスが顔を歪めた。
 声も立てずに泣き出した月の女神の小さな身体を、アテナ――ゼウスの信頼深い智と戦の女神は、引き寄せて抱きしめてやる。
「――これからあることは、わかっているね」
 半ば問いかけ、半ば確認のような台詞に、アルテミスはこくりと頷いた。
「可哀想だけれど味方はしてやれないよ。私はそれが役目だから。――望みは捨てずにいなさい。いつでも、最後まで残るものだよ」
 アルテミスの肩を優しく叩いて、アテナが囁いた。アルテミスはもう一度頷く。
「もういちど兄様に会いたい……」
「会えるさ。すぐに」
 返す声はわずかに硬い。
 いましばらくで、月の船は夜の世界の波止場にたどり着く。


 そのあとに待っているものは――オリンポスの裁判だ。
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