ぎりしあ奇譚

第二章


 六の月も半ばを過ぎた頃。人界(じんかい)に住まう神々、そして彼らに使える人間たちのあいだに、あるひとつの噂が広まりつつあった。
 ゼウス大神とレト女神の息子、太陽神アポロンの婚姻。相手の女性の名は語り手によりさまざまであったが――はっきりしたことは誰も知らぬというわけだ――数々の浮名を流しながらも決まった相手を持つことのなかった、しかもその美貌にかけてはオリンポス一とさえ囁かれる彼である。噂が尾鰭をつけながらも人界を駆け巡り、月神の神殿に届くまでにはそう時間はかからなかった。
「なによ、それ!?」
 女神に詰問され、何気なくそれを口にした年若い巫女は怯えの表情を浮かべた。かわって、アルテミスの髪を梳いていたエルザが助け舟を出す。
「私の耳にも入っておりますわ。お相手は存じ上げませんけれども……。近頃このあたりではもっぱらの噂ですのよ」
「……信っじらんない! 舌の根乾かないうちにっ……」
 鏡を壊しかねない勢いでばんっと左手を叩きつけ、うううとアルテミスは唸った。否定するにはあの兄にはあまりに前科が多すぎる。否定したいと思う端から、相手候補が複数浮かんでしまうのだから、フォローの仕様もないではないか。
「兄様の神殿へ行くわ。支度して、今すぐによ」
 硬い声のアルテミスの命令に、周囲の巫女たちが狼狽してざわめいた。
「アルテミス様、兄君とはいえ男のかたの住まいへいらっしゃるなんて……お名前が穢れます!」
 言い募るヘリアをアルテミスは睨みすえる。
「今すぐ、直接に逢いたいのよ。あたしの命令が聞けないの?」
「…………はい。申しわけありません」
 不本意そうに、それでもあるじの命令には逆らえずに、ヘリアは(こうべ)を垂れた。
「お召し物はいつものものでよろしゅうございますか」
 代わってエルザが一人平静に尋ねる。強張った表情のまま女神は頷き、それを確認してエルザはてきぱきと他の者に指示を出した。
「供は要らないわ。一人で行くほうが速い」
「では神殿の表まででも、わたくしにお見送りさせてくださいませ」
 ふわりと微笑んでエルザが申し出ると、
「私も参ります」
 負けじとヘリアがにじり寄った。
「――早くね」
 唇を尖らせたままのその台詞が、女神の承諾の返事であった。


「――で。言いたいことはなんなの」
 神殿からいくらか離れたところで、アルテミスは単刀直入に問う。
 二人の巫女は目を見交わしあい、結局二人同時に女神の前に腰を折った。
「どうか、自由に在ってくださいませ」
「どうか、お幸せにおなりくださいませ」
 アルテミスが瞬きをする。
 顔を上げたエルザが笑んだ。
「皆同じことを望んでおりますわ、アルテミス様。貴方様のお幸せを」
「あたしの、しあわせ?」
 ことんとアルテミスは幼い仕草で首を傾ける。
 ふと翠の目が空の彼方を見つめた。
「……判ったわ。憶えておく」
 視線はそのままに、呟くように女神は答えた。
「じゃあ、行くわね」
「行ってらっしゃいまし」
 二人の巫女の唱和に送られて、アルテミスはとんと地を蹴った。風をつかまえてぐんぐんと上昇する。
 南風に乗ったアルテミスが目指す目的地は兄アポロンの居城。大地の臍と呼ばれる予言の宮、デルフォイ神殿だ。


 この日、趣味の狩から獲物を抱えて上機嫌で帰る道のりで、気が強くて舌鋒鋭く感情の起伏の激しい妹がこの上なく不機嫌な表情で自分を待ち受けていた、という状況に陥った太陽神アポロンの反応はなかなかに複雑なものであった。すなわち、驚きと戸惑いと予測していたのだと言いたげな諦めの表情をそれぞれ三割ずつほど端正な(おもて)に浮かべ、気づかれぬ程度の嘆息を漏らしつつその場に足を止めたのである。……ちなみに残りの一割は反射的にはりつけたポーカーフェイスであったが、あまり成功とは言えないようだった。
「――噂、本当なの?」
 開口一番、ずばりとアルテミスが問い掛けた。やっと本来の表情を取り戻して、とりあえずアポロンはとぼけてみる。
「噂? 何のだ?」
「ふざけないで!!」
 すかさず怒鳴り返され、アポロンは苦笑を浮かべる。こんなにもまっすぐな気性の持ち主なのだ、この妹は。
 ごまかしも小細工も通用しない。
「――悪かった」
「謝って欲しいんじゃないわ」
 厳しい表情は崩さぬまま、声だけをかすかに和らげてアルテミスは応えた。
「ただ説明して欲しいだけよ。兄様の口から」
「……どう言えば一番気に入るんだろうな。おまえは」
「そんなのじゃないんだってば……!! どうしてわかんないのっ!?」
 いらいらと頭を振って、もどかしげにアルテミスは叫んだ。腰に届く白銀色の髪がざわりと揺らめいた。
「――判ってないわけじゃない」
 低く、アポロンは呟いた。しかしそれは、目の前の妹にすら届きはしなかったが。
 そう、判っていないわけではないのだ。アルテミスが自分になにを訊きたくてここまで来たのかなど。
 ――誰よりも自分がよく知っていること。
 けれど、純粋すぎるほどの透明な、偽らない心を前にして……それを傷つけたくないという想いがそれゆえに彼女の苛立ちのもとになっている。
(だが、言わぬわけにもいかない、な)
 自分自身にそう結論づけると、アポロンは長い前髪をかきあげた。
 いつの間にか習い性になった、うすい笑みのポーカーフェイスひとつを武器にして。
「――どこまで聞いてるんだ」
「え……?」
「噂とやらを、さ」
「……たいしては知らないわ。兄様が婚約したってことくらい。相手がどこの誰とかは教えてくれなかった」
「ふうん? それでおまえ、それ信じたわけか」
「兄様ってば前科多すぎて、信じる気にも疑う気にもなれないわ」
 ちろりと上目遣いに見上げてこられると、アポロンとしては降参するしかない。
「……まあ実際、本当だけどな」
 さらり、と軽く言い放った台詞にぴくりと反応して、アルテミスは兄の顔を食い入るように見据えた。その視線を正面から受け止めたまま、アポロンは目を逸らそうとはしなかった。
 まるで永遠にも感じられた、静寂の時が過ぎて。
「やっぱり、ね」
 沈黙の呪縛を断ち切ったのは、アルテミスが先だった。ぱちりとひとつ瞬きをすると、苦笑に交えて溜息を吐き出す。
「相手のひとの名前、は……訊いちゃだめなの、まだ?」
「公表は先にしようと思ってるけどな。おまえには教えとくよ。――カッサンドラだ」
「…………カッサンドラ……トロイアの王女の名前ね」
「そうだ」
「綺麗な人?」
「ああ。長い黒髪の巻き毛でね。儚げで美しい姫だ」
「そう。……ねえ兄様、あとひとつだけ聞かせて」
 少しだけ笑って、アルテミスはそんな訊き方をした。
 知りたくてたまらないたったひとつの問いを、何気ない笑顔に紛れさせて。
「そのひとのこと、愛してる?」
「…………」
 唇にまだ微笑をたたえたまま、アポロンは妹を見下ろしていた。その沈黙がすべての答えなのではないか、という想いを無理矢理に追いやって、アルテミスは重ねて問う。
「答えて」
「可愛いと、愛しいと思っているよ」
「それは、答えじゃないわ、兄様」
「そうだな。……大切にしてやるつもりだ。だが――愛してはいないな」
「…………っ!」
 直後。ぱしんっ、と高い音が上がった。
「兄様の、ばかっ!!」
 今にもこぼれんばかりの涙で瞳を潤ませて、アルテミスは強烈な非難の言葉を吐き出した。アポロンの頬に叩きつけた右手を強く握りしめる。――こぶしが震えだすほどに強く。
「……ごめん」
 頬をぬぐい、アポロンは目を伏せた。
「どうしてあたしに謝るのよ!?」
 謝って欲しいのではないのだ。
 ただその一言が聞きたくなかっただけ。
「結婚するんでしょう!? どうして愛してないなんていえるのよ……!」
「トロイアの王との盟約だ」
「……なに、それ」
「いずれギリシアとトロイアが戦を始める。忠誠の代償に、俺はトロイアに力を貸すと王に約した。カッサンドラはその証立てとして贈られる巫女だ。血筋は確かだし、美人だから見栄えもする。なにより、俺はこの戦に勝ちたい。このままじゃハデスやポセイドンに頭が上がらないからな」
「政略結婚ってわけ?」
「まあ、そうなるな」
「カッサンドラも知っていることなの?」
「いいや。彼女には俺から求愛をしているよ。あくまでも俺が見初めた、という形にしておきたい」
「だったら……!」
 アルテミスは声を荒げる。
「だったら、どうして愛してるって言えないの、嘘がつけないほど誠実な性格じゃないくせに。そんなの、カッサンドラが可哀想だわ」
「言うさ。彼女に対してなら何度でも。でもいまここで、カッサンドラを愛しているとはいえない」
 ふとアポロンが顔を上げて、静かに告げた。
「なんと罵られようと」
「だからどうして!」
 澄んだ目が正面から、アルテミスを見下ろした。
 晴天の下の海のような瞳をそのとき横切った感情の名前を、アルテミスは知らない。
「言わないと判らないのか?」
 返事の代わりに、訪れたのは静寂だった。
 そしてふいに、まるで力比べに負けたように、アルテミスは端正な顔をうつむけた。噛みしめた唇が赤みを帯びている。
「帰るわ」
 華奢な足が地を蹴ろうとしたその刹那。
「――――!」
 声を上げる暇すらなかった。つかまれた右手が強引に引かれるのを感じ、よろけかけた身体は力強い腕に支えられる。剥き出しの腕と肩に暖かい重量をアルテミスは意識した。
 一瞬ののち、アルテミスは背中から抱きすくめられている自分を理解する。見る間に頬が朱に染まった。
「や……っ」
 身をよじらせる。だが銀の大弓をも軽々と扱う彼女の腕は、アポロンの力を微塵も弱めることは出来なかった。
 肩から背へ流れる銀髪に、アポロンは顔をうずめた。
「知っているくせに……」
 低く囁く。
 硬直した時が流れた。
 そして。
「だけど、あたしは……あたしは兄様なんか嫌いよ。だいっ嫌い!」
 身体を強張らせ、アルテミスが叫んだ。無我夢中でアポロンの腕を振り解き、そのまま駆け出す。
 神殿の左手には小さな森がある。その中へ妹の姿が消えたのを見届け、アポロンは息をついて足を止めた。『女神』アルテミスは森の守護者――森は彼女の領分だ。追いかけたとて見つけられはしないだろう。……もとより追いかける気もないが。
「だいっきらい……か」
 ゆっくりと一度、その長いまつげを上下させたのち――そこにはもう、人間たちの畏怖と尊敬を一身に浴びる、若き太陽神としての『アポロン』がいるのみ、であった。



 昼なお暗い針葉樹の森。人の手が入らぬため積もった落ち葉をさくさくと踏みしめて、アルテミスは歩を進める。この森のことならば熟知していた。幼いころ兄とよく遊んだ場所だ。
 よりによってこんな処に逃げ込んでしまうとは――。ふと、苦笑が漏れた。それはまだ歪みがちなものであったかもしれないが。
「ヌシ――」
 足を止め、さらりと髪を揺らして、アルテミスは上方を仰ぎ見た。木漏れ日もここまでは届かない。暗い視界に移ったのは、一本の大樹。千の(よわい)を数えるこの森の長老だ。
 ごつごつした木の肌に、アルテミスは両の掌を当てた。目を閉じると、とくとくと流れる水の動きさえ感じ取れる。
「久しぶりだね……。昔はよく、兄様と挨拶に来たっけ……」
 新たな涙が、閉ざされた(まぶた)の奥から滑り落ちた。驚いたかのように、大樹が風もないのにざわりと葉を揺らした。だがそれにすら気づかず、頑是無い子供のように女神は言葉をつなぐ。
「ねえ、どうして……? どうして子供のままじゃいけないの。変わりたいなんて思わなかったのに! ねえ! こたえ、て、よっ……!!」
 言葉に嗚咽が混じり始めた。堰を切ったようにあふれる涙をぬぐおうともせず、アルテミスは額を手の甲に押し当てた。


 神の世界――オリンポスにおいて、血族間の恋愛・結婚はけして禁忌ではない。両親を同じくする間柄での婚姻すら珍しくはなかった。現に天界の長、ゼウスの妻女はかの神の実の姉でもある。たくさんの子を生し増えることが神の目的ではない。どれだけの力を持った子が生まれるかが問題だ。ゆえに近しいもの同士が結ばれることは、むしろ貴ばれることですらあったのだ。

 だが例外はある。
 アルテミスが嗚咽の果てに思いを馳せたのは、もうずいぶんと昔――生まれて十五の年を数えた頃。まだこの心が姿と同じほどに若くあった、……二度と戻らぬ時の彼方。

 その日アポロンとアルテミスは、揃って父親の私室に呼ばれた。
 一冊の書物を手に二人を迎えたゼウスは、漆黒の眉の下の瞳を満足げに細め、この好対照の一対を等分に眺めた。美しく強く育った二人の子は、ここしばらくの彼の自慢の種であった。
「――オリンポスの創生の伝は、無論憶えているだろうな?」
 前置きもなしにそう尋ねられ、二人は目を見交わしたのちに、揃って頷いた。混沌より現れし大地、太古の始神ガイアとその子孫、大戦そしてゼウスの時代、オリンポス。いまに連なる神々の歴史はすべた、子守唄代わりに叩き込まれている。
「ではこの書も知っておろう。わが祖母にして曾祖母ガイアの予言の書、だ」
「それは……!」
 がたんと椅子を鳴らして、アポロンは思わず立ち上がった。ガイアの予言書。それは世界の終焉まで見透かすとも言われた大地の女神の遺したただひとつの、すでに伝説となって久しい――書物。いまのいままで目にしたことも――それどころか、本当に存在すると信じたことすらなかった、幻の書だ。
「失われたはずでは、なかったのですか」
「驚くのも無理はない。十二神でもこれを知る者は半数にも満たぬ。だが、そなたらには見せておかねばなるまい。――アポロン、第九章を開けなさい」
 促されるままに、手渡された書の頁をアポロンは繰った。アルテミスは兄の肩越しに覗き込んでいる。
「第九 太陽と月についての予言――」
 示された場所をアポロンが開いたのと、ゼウスが低く豊かな声で暗誦を始めたのはほぼ同時だった。

太陽と月は混沌よりわかれしもの
影は光により
光は影により
互いのみをその存在の(はじめ)とす。
昼と夜は互いに出遭ってはならぬ。
太陽と月とが今一度交わりをなせば
すべてはいにしえに立ち戻る。
混沌はなにもかもを呑み込み
新たなる時代を待ちて眠りにつく。

「……意味は、理解できるはずだ。自分たちでよく考えなさい」
 父の言葉は、ひどく遠いように聞こえた。
 あれからどのようにして兄と別れ岐路についたか、定かな記憶はアルテミスにはない。ただあのあとすぐ、だったように思う。清き乙女の誓いを立て下界の神殿で暮らし始めたのは。思えば兄アポロンがプレイボーイとして浮名を流し始めたのも、その頃ではなかったか。


 なにゆえにガイアは予言によって禁じねばならなかったか。
 おそらくは宿命のもとに出逢うふたりであればこそ。
 ――そして結ばれぬこともまた必定だというのならば。ならば自分は、なにに祈ればいいというのだろう。
 人の子が祈りを捧げるこの神という身で、いったい何に。
「知ってたのよ……あたしは……」
 判って、いたのに――。
 啜り泣きは深い森に阻まれ、誰の耳に届くこともなかった。

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