Century20 CARD ONE ―魔術師のいる街―

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ACT 5

 ぱしんっ――。
  自分でも驚くほどの力で、麻里亜は手品師の右手をはねのけていた。
 瀬能朔が目を瞠り、何かを言いかけた。名を呼ばれていることには麻里亜も気付いた。けれど、それに反応する気には今はなれなかった。
 紫の絹の袋をはぎ取り、銀色の刀身を鞘からひといきに抜き去る。手を離れた鞘が路上に跳ねて、ひどく空虚な音をたてた。
 両手で柄を握りしめ、正眼に構えた牙月を麻里亜は、高都匡の喉許につきつけた。
「……まりあ!」
 混乱の面持ちで朔がもう一度呼んだ。
 匡は――匡の顔には、表情がなかった。笑みも、驚きも、すぐ傍にある切っ先への恐怖もなにも。
 ただじっと、打たれた右の掌を見ていた。
「何故だ?」
 目は逸らさずに、声だけで麻里亜は朔に問うた。
「瀬能、答えてくれ。何故おまえが、このばけものと一緒、に――」
(…………!?)
 不自然に声を途切れさせて。
 麻里亜は目を見開いた。
「牙月が」
 りん、という音が聴こえない。
「何故」
 妖魔を察知し主に警告する、あの、鈴に似た音が。
 耳に、届かない。
「牙月が鳴っていない……?」
 唇が勝手に、言葉を紡いだ。
 両の手から、力が抜けた。

  目の前にいるのは、まぎれもなくあの夜遭った吸血鬼で。
  次には必ず斬ると、祖父に約した相手で。
(けれど牙月が鳴らない)
  傍らには瀬能朔。
  仲間だと、同じ"ひと"だと、確かに。
  でもその同じ口が。鬼と親しげに言葉を交わした。
  相棒と、言った。
(こんなに近くにいても牙月の鳴らない妖魔も、いるのだとしたら。ならば)
  ならば、彼は――瀬能朔は。

  何者なのだ?

  肩を掴む力強い指に麻里亜は我に返る。
  息が届くほど近くに、覗き込む瀬能朔の顔があった。
「まりあ」
  幾度目だろう? 今日、こんな風に心配そうに、彼がその名を呼ぶのは。
  怒鳴るような謝罪に、泣きたいほど嬉しくなったのは、つい先刻のことだ。
  けれど。
「離せ」
  麻里亜は身をよじらせた。肩を支える大きな手をふりほどいて後じさる。
  急に重く感じられる牙月を、胸に抱いて。
「おまえも仲間か。私に近付いたのも、油断させるためか」
  拒絶を全身で表した麻里亜に、朔は近寄ることができなかった。
「信じた、私が愚かだった」
  白い頬をひとすじ、透明な涙がつたい落ちた。
  それを隠すように右手が顔を覆う。
「――消えてくれ」
  震える声。
「次は斬る。今は、私の前から去ってくれ……」
  少し離れて佇んでいた匡が、それを聴いて動いた。
  マジシャンとして街頭に立つときと同じに、さらりと黒髪を肩ですべらせて、深く頭を下げる。
  指の先までしなやかな、完璧な挙措だった。
  そして顔を上げると、匡は何事もなかったかのように背を向けて歩き出した。
  その姿が角を曲がって見えなくなった頃、朔は途方に暮れた瞳で麻里亜を見遣った。
「…………」
  なにかを言いたげに口を開く。けれど、結局何も言えぬままに朔もまた踵をかえした。
  スニーカーのかすかな足音が遠ざかっていく。
  麻里亜は動かなかった。ふたつの気配が完全に消え去ってなお、凍りついたようにそこに立ち尽くしていた。

 角を曲がると、相棒の背はすぐに見つかった。もともと紛れるほど人のいない通りだ。朔は足を速めて匡と肩を並べた。
  穏やかな視線を匡が送ったが、それは無視した。
 無言でただ歩くこと数分、声の届く範囲に人がいなくなったところで、朔はやっと口を開いた。
「……何やったんだよ、おまえ。まりあに」
「べつにたいしたことじゃない」
 うすく、匡は笑む。
「俺の食事の時間に、彼女がたまたま居合わせた。それだけだよ」
「なっ……なんだよそれ!」
 朔は声を荒げた。
 それはもっとも露骨な、化物としての高都匡の姿、だ。
「全部、わざとかよ」
 たまたまだとか偶然というものが、この人物にだけはけして当てはまらないということくらい、とうに朔は知っている。
 すべて計算しつくされた行動。だがそれらが何を指向しているのかを朔が理解するのは、たいてい何もかも終わったあとだ。
 今だってそうだ。匡の意図なんて判りはしない。
「それじゃあ、嘘になっちまう」
 けれど、どんな理由がそこにあったとしても、許せないと思った。
 麻里亜を――あの、哀しいほどはりつめた少女を、匡が故意に傷つけた。それは確かな事実なのだから。
「麻里亜が仲間って言ったから、俺は人間でいたいって。俺はそう言ったじゃないかよ。なのにおまえがそれを、嘘にするなんて」
「嘘?」
 匡は目を細めて、朔を見返した。
「嘘というなら、それは朔のついた嘘だろう?」
 かっ、と朔の頬に朱が差した。一瞬、空白が頭の中を支配した。フラッシュ。
 右のこぶしに走る熱と痛みが、朔の意識を現実にひきもどした。
「――あ……」
 思いきり殴っていた。容赦ない本気の力で、匡の頬を。
 初めてだった。
「けっこう、効くね」
 こらえきれず崩した膝を立て直しながら、匡がぽつりと呟いた。片頬はひどく赤くなっている。その治癒能力をもってしても数日は跡が残るだろう。唇も切ったらしく、口の端に血がにじんでいた。それでも特に醜く見えないのは、もとの造りが良すぎるせいか。
 勿論匡だからこの程度ですんでいるので、普通の人間ならば歯が折れるか、下手をすれば救急車だ。
(違う)
 朔は目をみひらいた。
 匡ならばそもそも、避けられぬはずがないのだ。
 その華奢に見える肢体とは裏腹に、匡は強い。タロットカードや精霊召喚を用いるのは単に趣味の問題であって、実際はオールマイティと言って良い。
 この自分に闘いかたを教えたのも匡だ。
「わざとだろ。よけなかったの」
 朔は声を震わせた。
「否定はしないよ。殴られるに値することをしたとは思っている」
「だから俺を挑発して、殴らせた?」
「ああ。俺は朔に謝る気はないけれど、朔は怒って当然だ。俺がまりあに酷いことをしたのは本当だから」
 こんなときでも、匡が浮かべるのは笑みだった。
 けれど今はそれが、どこか淋しげに見える。それとも朔の気のせいにすぎないのだろうか。
「馬鹿」
 朔は短く吐き捨てた。
「こんなんで、俺の気が済んでたまるか」
 言いながら右手の指が、シャツのボタンを一つ外す。
「本気で相手しろ」
「……朔がそう望むなら、いいよ」
 口許から笑みを消して匡が頷いた。

 先に仕掛けたのは朔のほうだった。
  高速で叩き込まれた蹴りを、しかし匡は片腕で受け流す。
 バランスを崩しながらも次いで右腕がこめかみを狙う。それは後ろに跳んでよけて、距離をとったところで手品のように取り出したカードが匡の手から放たれた。カミソリ並みの鋭さを持つそれを、物質化した朔の赤いオーラが払いのける。よけきれなかった最後の一枚が頬をかすめ、赤い筋を残した。
 乱暴に頬を拭い、朔は舌打ちをした。手の甲に付いた血をぺろりと舐める。膝を落として隙のない構えをとった。
 対照的に無造作な立ちかたで匡は口の中でなにごとかを唱えている。しなやかな指が空中に図形を描く。
 音もなく地を蹴り、朔はそこへ迫った。右腕をふりかざす。日本刀に似た形をとっていた赤光がしなり、輝く鞭となって伸びた。それ自体意志を持つかのように光の鞭は匡の身体をからめとろうとする。
 だがそれが突き出した匡の右手に触れる一瞬前、青く輝く球体が匡を包み込み、オーラをはじいた。匡の最も得意とする、防御結界だ。
 同じ色の光が、瞳に躍る。純然たる和風の美貌がこの時だけ、国籍不明の顔立ちに見える。
 朔は再びオーラを刀として収束させ、結界を承知で叩きつけた。手に痺れが走る。二つの異質なオーラがせめぎあい、悲鳴をあげた。
 突然、ふっと青い結界がかき消えた。力比べに押されたというよりは故意のことに思えたが、利用するしかない。間合いを詰め、匡の首筋の高さで大きく一文字に薙ぎ払う。
 信じがたいことに、匡はこの一撃を左手の甲で受け止めてみせた。よけるでもなく払うでもなく、刃と化した朔のオーラに微塵の躊躇もなく素手で対して、しかもその皮膚にわずかなりと傷をつけることすらなしに。
 上か下かに払う、あるいは後方へよけると踏んだ上での攻撃だった。そのために朔の次の対応までに、一瞬の間が空いた。
 見逃さずにそこを匡が狙った。力ある言葉を、声には出さずに唇が紡いだ。
 辺りの空気がその温度を急激に下げたように感じられたのが、一刹那。
 空気中の水分を凝固させた、横殴りの氷雨が、次の瞬間、一斉に朔を襲った。回避すら許さぬスピードで迫り来る氷のナイフは、壁際に朔の体を釘付けにして完全にその動きを封じた。朔は唇を噛みしめた。
 喉許にぴたりと、冷たいものが当てられている。見えてはいないが肌を裂く傷が未だないのは感触で判る。しかし一寸でも動けばたちまち、大量の血がそこから溢れ出るであろうこともまた事実として突きつけられていた。
 とぎすまされたタロットカードのエッジで朔の動きを奪い、匡は低く囁いた。
「チェックメイトだ」
 そこに勝利の愉悦は見えなかった。むしろ抑えた哀しみが、そこには在った。

 どのくらい、沈黙が続いたろうか。
  目を閉じ、大きく朔は息を吐いた。その間も命運を握るカードはそのままだったが、自分よりも匡の方がよほど緊張を強いられていることに朔は気付いていた。
 優位を崩さぬことと朔に毛筋の傷も負わせぬこと。その二つを両立させるぎりぎりのバランスを素知らぬ顔で保ち続けるのに、どれだけの精神力が要されるものか。
「……降参」
 その言葉で朔は自分と匡とをそのはりつめた世界から解放する。
 かすかに頷いて匡はゆっくりと退いた。
 壁に背をつけたまま、ずるずると朔は行儀悪くしゃがみこむ。
「本気、だったよな」
 うわめづかいに確認する。
「そう心掛けたよ」
 生真面目に匡が応じた。
「……判ってる」
 思い知らされる。
 届くことのない高みに、彼がいるのだと。
 本気、の言葉に嘘があるとは思わない。けれどその本気を、相手を傷付けず一瞬で勝負を決める方に向けられる――それが力の差だ。
「朔」
 ためらいがちに匡が歩み寄り、アスファルトに膝をついて朔に目の高さをあわせた。
 その肩越しに、人の流れが復活したのを朔は確認する。先程までは途絶えていたものだ。匡がこの空間を封じていたから。
 匡ならばそうするだろうと、半ば無意識に信じていた。許せないと言いながらも自分がこの相棒に深く依存していることを、改めて思い知る。
 右腕を伸ばして、朔の頬の血を匡は拭う。
「少し、自信過剰だったな。怪我させる前に終わらせるつもりだったのに」
 自嘲の笑みが、色の変わりはじめた片頬でひきつれて歪んだ。
 けれど漆黒の瞳だけが痛いほどまっすぐに、朔を見ている。
 血のにじんだ唇が、動いた。かすかに。なにごとかを、伝えかけて。

  ごめん、と。

  声にできなかった言葉がそれだと、理由もなく朔は思っていた。
  謝らないと匡は言ったから。
(かなわない)
  力ではなく存在として、強さが違う。今までそれがただ悔しかった。何をしても追いつけない背中を憎みすらした。
  けれど今は。
「……帰ろうか」
  そう言って立ち上がりかけた匡の、骨の細い肘を朔はつかまえて引き寄せた。
  匡が少しだけ、驚いた目をする。
「いつか俺が叶えてやる」
  え? と匡が小さく訊き返した。
「今はまだ預けとく。だけどいつかは俺がきっちり勝ってやるから。待ってろよ。諦めないでちゃんと待ってろ」
「―――」
  まばたきを幾度かして、それから匡は微笑んだ。花のように、綺麗に。
「楽しみにしておくよ」
「よし」
  にっ、と朔は唇の端をつりあげた。そして、弾みをつけて立ち上がる。
「じゃあ、話せよ。麻里亜に逢いに来た理由、俺を別々に逢わせた理由。これからどうするのか、俺や麻里亜にどうさせたいのか。そのへん全部をさ。それが判ったら、おまえの思いどおりに、一緒に動いてやる」
「……さっきも言ったけど。俺は謝らないよ?」
「いいぜ。俺も、まだしばらくは許さねえし」
  なんでもないことのように朔がうそぶいた。
「よろしい」
  自信に満ちた、高都の長を名乗る時の顔が匡に戻ってきている。
  青く抜ける空をふり仰ぎ、彼は虚空に音なき声を放った。瞳だけがかすかに青みを帯び、肩先で黒髪が揺れた。
  風の届ける声を聴く、その横顔を眺めて朔は待つ。
「どうやら話ができる程度には、時間はありそうだ」
  視線を戻し、穏やかに匡はそう告げた。
「一度、部屋に帰ろう。コーヒーでも淹れながら話すよ」
「おし。決まり」
  ところでさ、と朔はいたずらっぽい笑みをひらめかせる。
「その髪。帰ったらくくっとけな。さっきからやたら男どもの嫉妬の視線が痛くてさ。おまえどう見てもモデル並みの美女なんだもん」
  まあ結んだくらいじゃたいして変わらないか、と駄目押しされるに及んで、さすがに匡が渋い顔を向けてきた。あははと声をあげて朔は笑い、そして二人は肩を並べて歩き出した。


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