CARD VI ―― Lovers


第三話  "さよならは言わない"

「もういいっ! あんたなんか知らないっ!!」
 自宅の玄関の扉を開けたとたんに出くわした大音声に、瀬能朔は思わずドアノブを握ったままのけぞった。
 3LDKの、二人暮らしには広すぎるほどのマンションである。声の主はよく知った少女だったし、となると怒鳴られた相手はルームメイトである相方しか考えられない。その二人がいるならおそらく場所は突き当たりのリビングで、そちら方面へ続く扉は閉まっているのが見えていてる。どれだけでかい声で怒鳴ったんだおい、と胸中でぼやいたのと同時に、その扉が音高く開いて小柄な人影が走り出てきた。
 全く前方確認をせずに突っ込んできた、見慣れた制服姿を、玄関の段差を踏み外す一歩前で朔は抱きとめる。それで初めて玄関に人がいたことに気が付いたらしく、少女が反射的に顔を上げて、はっと目を見張った。
「奈央」
「ごめん、帰るから」
 目を逸らしながらちいさく謝って腕の中から逃れた少女は、もどかしげにローファーをつっかけると振り返りもせずにまた駆け出した。その足音が廊下の角を曲がりエレベーターホールに到着し、朔が降りたままその階に停止していたらしいエレベータに乗り込むのまでを聞き届け、それから朔はひとつ溜息を落としてスニーカーを脱いだ。
「おかえり」
 リビングに入ると同時に予想通りの場所から予想通りの台詞が飛んでくる。いつもどおりの穏やかな声音もこれまた予想通り、けれどもただひとつ意外なものを見つけて、朔は盛大に噴き出した。二人用のソファに品よく掛けてティーカップを口に運んでいる相棒の左頬に、くっきりと赤く手形が残っている。もともとがとてつもなく整った造作だけに、そのギャップは気の毒を通り越してもはや笑い事にしか見えなかった。本人はあくまで涼しい顔だからなおさらだ。
「派ッ手にやられたなー」
 くつくつと笑いながらいつもの指定席、すなわち相棒の隣の空間におさまって、背凭れの上で頭をごろりと回す。この角度では相棒の――高都匡のいつもどおりに美しい横顔が見えるばかりで、右側を空けて座っていたのは絶対にわざとだなと心中で朔は確信した。
「なあ」
 短い呼びかけに、視線だけが促すように応じてくる。
「泣いてたぞ、奈央。『あんたなんか知らない』だって? 一体なにやらかしたんだ」
「そろそろ春だから」
「はん?」
「次の落ち着き先が決まったら教えろと言われてね。悪いけれど、もう逢う気はない、と」
「おまえ、それ言うかよ……あー、でも、しかたねっか……だよなあ」
 うまい言葉を見つけられずに、朔は天井を見上げた。
 日比野奈央が飛び出していった理由がよくわかる。けれども、この相棒がそうした言葉しか返してやれないのも、仕方がないと思うのだ。
「関わらないほうが、本当は良かったのだろうけれどね。どちらのためにも」
「ってなあ、おまえがおせっかいしてなきゃ、奈央はとっくに死んでるんだぜ?」
「それは、わかっているけれど。元を辿ればあれも、高都の……俺の責任なのだし」
 苦笑した匡に、とっさに返す言葉を見つけられず、朔はくしゃくしゃと髪を掻き回した。
 高都匡と瀬能朔のふたりが、日比野奈央という少女と知り合ったのは半年ばかり前のことだ。最初は全くの偶然だった。帰宅が遅れて暗い公園に踏み入った少女を襲った小物妖魔を、匡のカードが退けた。
 決して公にされることはないが、21世紀も近い現代においても、そうした魔物の脅威というものは存在する。そしてそれらを滅する力の持ち主もまた。少女は幸運な偶然によってそうした力に助けられ、襲われた記憶ごと匡の能力をもって封印されて、平凡な日常へ戻っていく、……はずだったのだ。いつもならば。
 だが二度目の襲撃で、奈央は一度は封じられた記憶を取り戻した。ごく稀に、言うなれば突然変異のように現れる、生来の超常能力者。本人ですら知らずにいたその事実により、命を狙われることになった奈央を守るため、彼らはこの少女と深く関わらざるを得なかった。
 知り合えたことを厭う気持ちはない。だが、出会いがあれば別れがあるのが必定だ。ずるずると別れを先延ばしにしてもなにも変わらないのなら、早いうちに突き放すのが匡の誠意の示し方なのだと、たぶん誰よりもよく朔が知っている。
 それでもどこかに割り切れない気分があるのは、たぶん、少女が匡に寄せる想いに薄々気づいてしまっていたからだろう。それがまた、ことさらに冷淡に匡が彼女をはねつける理由でもあるのだろうが。
(可哀相、だけどな)
 そればかりは本当にどうしようもない。彼女が生まれるよりもずっと前から、匡の心は揺るぎなくたったひとりに向けられたままだ。
  気の毒な少女のことを思って、朔はまたため息をついた。

(馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿!)
 それこそ馬鹿の一つ覚えのように胸の中で繰り返しながら、日比野奈央は通いなれた家路を辿っていた。拭っても拭っても目尻に滲む涙が忌々しい。
「泣いてなんかやらないんだから」
 自分に言い聞かせるように呟いて、目を擦る。あとから酷いことになるとわかっていてそれでも、頬に涙が伝うのが許しがたかった。
(泣いてなんかやらないんだから、あんな奴のために)
 ――教えないよ。こちらからも、逢いには来ない。連絡もしない。
 いつもどおりの綺麗な顔で、少しだけ困ったような、なだめるような声音で。
 彼にとっては、きっとなんでもないことなのだろう。少女一人、気まぐれに助けて、少しばかりの時間をつきあって、それだけ。だからあんなことが言える。
 ――出来るなら、忘れなさい。
(忘れられるわけ、ないじゃない……ばか)
 出逢ったのは冬の初めだった。今はもう春の初めだ。けれどもう、彼らのたくさんの表情を知っている。瀬能朔が大雑把なようでよく気が回ること、高都匡が実はけっこう自分のことには無頓着なこと、ふたりとも寝顔が予想外に可愛いこと。また狙われたら怖いから、という口実で強引に彼らの部屋に入り浸って、このひと冬はひたすらまとわりついた。最初は好奇心で、そのあとはただ知りたくて。
 離れたくないと、彼らを知るほどに思うようになっている自分に気がつくのには、そんなに時間がかからなかった。
 想いを返してくれるなんて希望は持っていない。長い睫毛の奥の漆黒の瞳はいつもどこか遠くを見ていて、絶対に奈央を見はしないだろう。それでもそばにいたかった。せめて友人として隣で笑うことを許して欲しかった。だから、わがままだと知りながらも、もう少し居てくれと、だめなら会いに行くから連絡先を教えてくれとねだったのだ。
 そして返ってきたのは穏やかな拒絶だった。
 まだ、怒ってくれたほうが良かった、と思う。わがままを言うな、約束していたじゃないかと、不機嫌になってくれれば。聞き分けのない子供のような扱われかたはたぶん、彼にとって奈央がそれだけの存在でしかないからだ。それが悲しくて寂しくてどうしようもなく腹立たしくて、思わず手が出てしまった。
「避けてもくれないんだから。ほんっとに、嫌なやつ」
 声に出して呟いてみる。憤然とした声になるはずだったのに、出てきたのはかすれて震えた情けない音だ。
「……ばっかみたい、あたし。あんたなんか知らない、なんて、言ったってあいつに都合いいだけじゃん」
 ひっぱたいて捨て台詞を投げつけて、すぐに逃げ出してしまったから、あのとき高都匡がどんな表情をしていたか奈央は見ていない。きっとやれやれと苦笑しているだろう。入れ替わりに帰ってきた朔に赤くなった頬を笑われて、肩をすくめて、それで日比野奈央という少女のことなど終わりにするのだろう。
「ばかみたい……」
 また涙のこみ上げてきた目元をぐりぐりとこぶしで擦る。子供の泣き方だなぁと自嘲して、気持ちを落ち着けるために深呼吸をした、その三回目と同時に、ふっと周囲が暗くなった。
「えっ?」
 びっくりして涙が引っ込んでしまった。ぱちぱちと瞬きをしてもあたりは相変わらず暗いままだ。気づかずにぼーっと時間をすごしてしまったのか、と時計を確認してみたが、やはり朔とすれ違うようにして彼らのマンションを飛び出してからまだ15分も経っていない。もしや季節外れの夕立でも降るのかと空を仰いで、――奈央は絶句した。
 空が、見えない。
 雲が厚いとか、そういうことではない。頭上に、べったりと塗りつぶしたような「黒」があるのだ。天井のようだが、思わず足元を見て左右を見渡して確認してみたところ今踏みしめているのはやっぱりアスファルトで、だから先ほどから変わらず奈央は路上に、それもブロック塀にはさまれた住宅街の細い路地にいるのであり、天井が頭上に――しかもこんなに近くにある納得できる理由はどこにもない。
 あるとすれば。
「わあいひさしぶりのごちそうだあー」
「うそ、なにそれ、ありえないって言ったじゃんっ」
 奇妙にのっぺりとした声の聞こえた方向に反射的に振り向いて、奈央はわめいた。少しばかり人と違う力を持つからといって、確率的に言ってそうそう魔物になど遭いはしないものだと教えられたのだ。以前に奈央が狙われた理由である、奈央の持つ潜在的な力は、普通の妖魔であればむしろ避けるはずのものだから、
「心配ないって言ったじゃんか嘘つきーっ!」
 脳裏に思い浮かべた高都匡の優雅な微笑に向かって奈央は思い切り怒鳴った。そうでもしないと怖くて膝が震えてしまうのだ。のっぺりとした声を持つ妖魔は同じくのっぺりとした顔をうれしげにゆがめて、曲がった爪のある手を奇妙に緩慢な動作でこちらに伸ばして来る。
「おんなのこをたべるのはひさしぶりだなあ。ばりばりあたまからたべるのがいいかなあ」
「食べるなーっ」
「まるのみするのもいいなあ。おんなのこはやわらかいからつるりとのめるなあ」
「やだってばっ。あんたなんかに食べられたくない!」
「かわをはぐのもいいなあ。……ああそうだまずつかまえなくちゃ」
 走って逃げようとした奈央を、たった数歩で見えない壁が阻んだ。思ったとおりにこれは妖魔の結界だ。いつだか教わったとおりだ。正解でもぜんぜんうれしくない。
 助けて、と叫ぼうとして喉が震えた。
(誰を呼ぶの、あたし)
 あんたなんか知らない、そう拒絶を投げつけたのは自分のほうだ。受け止めてくれないことに苛立って自分から逃げ出して、だからこれは自業自得だ。怖い。でも呼べない。助けてと叫んで、それでも来てくれないことのほうがもっと怖かった。
 絶望と恐怖で気が遠くなりそうな、こんなときにも、脳裏に浮かぶのはやはりあの綺麗な微笑みだ。
(――あんたが食べてくれるならいいのに)
 胸のうちでつぶやいた刹那、妖魔の爪が手首の皮膚を削った。――捕まる、そう覚悟して目を閉じる。
 かっ、と光が弾けた。
「ぎゃぁぁああああっ!?」
 絶叫したのは奈央ではなく、妖魔のほうだった。目の眩むような光の源は奈央の胸元から発されていた。その色は青。
「匡……!?」
 青は、かれの魔法の色だ。はっと思い当たって、制服の胸のポケットを奈央は探った。いつだったか路上販売で見つけて冗談半分にねだったおもちゃのキーホルダー。綺麗な青い石が気に入ったのを、朔が三分の一まで値切り倒して、匡が財布から小銭をいくつか払って、そうして手渡してくれたのだ。おまもりにするねと言ったら、安物だからあんまり効果を期待しないようにと笑われたけれど、嬉しかったからずっとポケットに入れて持ち歩いていた。それが今、奈央の手の中で、強い光を放って奈央を守ってくれている。
 涙がぽろぽろとこぼれた。もう、それを拭おうという気にはならなかった。
(――守ってくれた)
 大切に大切に、小さな石を両手で握り締める。

「奈央ーっ、おまえなあ、さっさと助け呼べっての!! あとなあ、せっかく逃げれるってのに突っ立ってんじゃない!」
 呆れと叱責を半々に滲ませた声にすぐ近くで呼ばれて、奈央はきゃっと悲鳴を上げた。瀬能朔の持つ赤い剣が、苦悶する妖魔をばっさり切り捨てたところだった。
「は、じめ……」
「おー。朔さん登場」
 ひょいと右手を上げて、あっけからんと瀬能朔が笑った。
「大丈夫だったか? ……いるんだよな、俺と匡がいるのにのこのこ出てくるにっぶいのが。この辺は相当念入りに掃除したしさ、さすがにいないと思ったんだけどなぁ。わりい、怖かったろ」
 眉を下げてすまなそうに謝る。それがあまりにもいつもどおりの瀬能朔で、奈央の口元は自然と綻んでいた。
「ありがと……うん、こわかったぁ。食べられちゃうかと思った」
「おいおい。俺たちがいんのに、んなことさせるわけねーだろ」
 指先で額をつつかれて、痛いよーとこぶしで朔の胸を叩くふりをする。大げさにのけぞってみせた長身の向こうにもうひとつ細いシルエットを見つけて、奈央は目を見開いた。
 言葉が胸に浮かぶより先に、足が動いていた。朔が苦笑して一歩引くのが、目の端にちらりと見えた。
 数歩離れた位置で動かない高都匡のもとに駆け寄って、間近に美貌を見上げて、そうしたら何も言えなくなってしまった。ごめんなさいとかありがとうとか怖かったとか嬉しかったとか、言いたいことはたくさんあるのにどれひとつとして口から出てきてくれない。口をパクパクとさせているのはたぶん傍目には金魚のようで、ずいぶんおかしかろうと思うのに、匡の唇にはいつものような笑みがない。ただまっすぐに、凪いだ海のような静かなまなざしで、奈央を見返してくれていた。
「――匡、」
 何度目かの努力で、やっとその名前だけ口にできた。それと同時に止まっていた涙がまた頬を伝った。
 手を伸ばす。薄手のセーターに指先が届いて、確かめるようにそれを握りこんだ。うつむいた頭上でかすかに笑う気配があって、ゆっくりと髪を撫でられる。
「匡、匡、匡、匡……っ」
「うん」
「ごめんね、ごめんね、知らないなんて嘘、ごめんなさい……!」
「ああ、わかっているよ」
 とうとう奈央は我慢を手放した。気持ちのままに目の前の胸にすがりつく。
「いやだ、匡がいなくなるなんていや、もう逢えないなんていや!」
 優しい腕は、抱きしめてはくれない。片手がただゆっくりと髪を撫で続けるだけで、それが嬉しくて寂しくて奈央は泣きじゃくった。嫌だ、離れたくない、そればかり繰り返し訴えた。
 どんなに懇願しても決して応えてくれないことは、とっくに判っていたけれど。
「――匡が食べてくれればいいのに」
 先刻胸をよぎった思いが、泣き疲れたころに唇からぽとりと落ちた。
「友達は食べないよ」
 答えはそんな風に返った。ともだち、そう繰り返して、奈央は小さく笑った。

「元気でね」
「おう」
「ありがとう。奈央も」
 にっこりと笑って見上げた奈央に、高都匡と瀬能朔はそれぞれに笑みを返した。朔のわずかに心配げな表情は、赤く腫れた目を気にしてのことだろう。昨晩はやっぱり大泣きしてしまったから、それはごまかせるはずがないのだけれど、それにしては今はなかなかうまく笑えた、と奈央は自分を少しだけほめた。
 わがままを言って、見送りの場所は駅のホームにしてもらっていた。本当は彼らには必要がないのかもしれないけれど、列車ならどんなにがんばってもホームの端までしか後を負えないから、ただ見送るだけで諦められるから、そう思って決めたのだ。
「いい女になれよ?」
「もういい女じゃんっ」
 からかう声に怒ってみせる台詞に、発車のベルが重なった。一歩下がった奈央の前で、無情な自動扉がしまってゆく。
 またね、という言葉は出さなかった。
 または、ないのだ。
 けれど、さよならも言わない。
 動き始める列車を追おうとする足を意志の力で止めて、奈央はただ手を振った。座席側の窓から身を乗り出した朔が、両手を大きく振り返してくれた。
 みるみるうちに列車は遠くなる。
 それが完全に見えなくなってから、ポケットから青い石のキーホルダーを取り出して、それに向かってそうっと奈央は呟いた。
「また、ね」
 風に、石がゆらゆらと揺れる。
 匡が苦笑したのが見えた気がして、いまのくらい聞かなかったことにしてよねと面影に語りかけ、ぐいと目元を拭って、奈央はホームを後にした。

第三話 了


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